巨乳海岸、そしてカージャック街道

だらだらゲームして過ごす夜のひととき。
今は「DOA巨乳さんバレー大会」をだらーっとやって、飽きると
「グランドセフトオートⅢ」に移るといった感じ。
セックスとバイオレンスが渦巻くローテーションだ。



DOAはXボックスの記憶装置にお好みのCDをぶち込んで、ゲーム中に再生
できるので、気ままにいろんな曲を入れている。
ゲーム中、朝になるとパートナーがプレイヤーキャラを出迎える。
オイラはパートナーを常にエレナにしているが、エレナがエレガントに
「お待たせしたかしら?」といってるバックでは、「布袋キルビル」が
流れたりする。たちまちエレナが仁義なきヤクザ状態。ヤッチマイナー!!!!!



バレー中、海岸では長渕剛の「キャプテンオブザシップ」「家族」、浜田省吾
「MONEY」「悲しみは雪のように」、ロマンポルシェ。の「ラブレター
フロム裸」「新島で死にたい」、杉良太郎の「江戸の黒豹」「すきま風」「君は人
のために死ねるか」、挙げ句には長州力の入場曲「パワーホール」までが流れる。
アルティメットに場末な海水浴場だ。


「キャプテンオブザシップ」に「家族」は曲が長いので、サクッと試合が
進むと「生きてー生きてー生きてー生きてー生きて生きて生きまくれー」、
「白地に赤ーい日の丸ー」等のサビ部分を聴く事が出来ない。



ポリゴン美女たちが胸を揺らしてバレーをするバックに長渕の魂の熱唱。
雰囲気的には建設重機にセーラームーンが描いてあるようなもんだ。
今日からお前がキャプテンオブザシップムーンリベンジ。




場末海水浴場に飽きると無法都市でのカージャックに切り換える。
「GTA3」では、もっぱら日本人ヤクザの虐殺に専念している。
「俺のマークⅡ返せっちゅーねん!!!!」と怒鳴るヤクザを、強奪した
そのマークⅡ(ヤクザスティンガー)で轢き殺したり、まあいろいろな殺人テクを
試してみたり。マンハントだ。北村龍平監督も夢中だ。




そういえば「バイスシティ」では、通行人キャラに眼鏡っ娘がいる。
もちろん轢き殺したり射殺したり撲殺したり出来る。眼鏡さん惨殺残虐ゲームだ。
移動法廷に訴えてやる。
残虐行為はなんでも出来るのに、何故「パンツを見る」「パンツを脱がす」
「パンツの中に手を突っ込む」「パンツのなかを弄る」等が出来ないのか。
理解に苦しむ。
「眼鏡にかける」等が出来るよう、メーカーには徹底してもらいたい。




ただそれでも売春婦を盗んだ車に連れ込んでのカーセックスは出来たりする。
これでライフが回復。ライフが減りそうなもんなのだが、回復する。
絶倫大国アメリカ。である。




ヤクザ惨殺に飽きると、立体駐車場にかけあがり無実の市民を無差別狙撃。
全米を震撼させたリー・マルヴォ:ジョン・ムハンマドの再現だ。
病んだ大国アメリカ。である。



自由度の高いゲームでは、無法でインモラルな残虐行為も自由自在である。
自由と無法の境界が見えなくなるトワイライトゾーンだ。
でもゲームは所詮ゲーム。リアルにはみ出さなければ良いだけの事だ。
隔離されたゲーム内であれば、どんなアウトローを演じても何の問題も無い。





しかしながらリアルでは、ゲームは現実の人格に影響を与え、ゲーム中の行為は
必ずやリアルに持ち出され現実の犯罪になると危惧されている。
そしてゲームや暴力的メディアの影響によって、仮想の殺人行為が現実の事件と
なってリアルに越境するケースが、まったく無いとも言い切れない。
人間は「想い込み」で人を殺す事ができるのだ。
銃社会はその「想い込み」に現実的な力を容易に与える。
容易に他人の妄想の実現手段が、平和な日常の水面下に潜む事が出来る
全米は、常に震撼している。
危険がいつ露出するかも知れない銃まみれの不穏な国で、銃武装の権利を
手放せないのは理解するに難しくない。
疑心暗鬼のヘストン・ワールドだ。




「ゲーム」が人を殺す。


稚拙な人格の問題か、規制の問題か、教育の問題か。
複雑で紙一重で、非常に難解な話である。



たかが「ゲーム」なのに。

家族

家族

Captain of the Ship

Captain of the Ship